私は昭和12年3月1日(68歳)父が鶏の鑑別士だったので、広島県比婆郡七塚原牧場で5人兄弟の3男として生まれ、7歳まで牧場で過ごしました。8歳で原子爆弾に遭遇、この被爆体験を一生忘れ去ることはありません。

 8月6日空は雲一つない晴天、被爆時、始業ベルが鳴り、私は便所の一番奥で用を足していた時、突如として写真のフラッシュを強力にしたようなピシャーという音と共に、一瞬の沈黙があり、続いてドーンという轟音と共に学校全体が数メートル飛び上がったように感じ、そして、一時の空白を経てガラガラという大音がしたので、学校へ爆弾が落ちたと思いました。教室にとって返すと窓ガラスは粉々、机はひっくり返り、同級生は頭から血を出し、喚いていました。 自宅へ取って帰る途中は火の海、かろうじて空地をもぐりぬけ家にたどり着きましたが、即日、知人の近郷の親戚の家に子ども達は避難したので、ケロイド状態の人々の悲惨な姿は目にしていません。

 相当の期間、山々の木に火が残っており、その後雨が降り、焼け跡の消しすみを燃料として高梁の団子汁を主食に過ごしておりました。

 この年、広島市内を縦断する大田川が台風で氾濫し、我が家は水浸しとなりました。父は被曝日には出張しておりましたが、翌年2月に44歳で病死。やむなく、両親の故郷である香川県へ移住しました。
 弟が乳のみ子でしたが、母は乗れない自転車をマスターし、着物行商をしながら、私を商業高校に入学させた年の9月に病死(48歳)しましたが、長兄の学資の援助により卒業させていただきました。

 商売人たらんと東京に出ましたが、神戸の姉を頼り、船会社に18歳から29歳まで勤務後退職。3年間会計事務所へ勤め、33歳で結婚、翌年、税理士事務所を開業しました。

 家族は自宅に妻と犬2匹。長男は結婚し会社経理部勤務33歳。次男は趣味が高じてそれが職業となり九州佐世保に住み着くようです。

 私は21歳のとき、極度のノイローゼで苦しみ、このとき、般若心経にいう“空・無”の心境を多少とも感じ取れました。25歳のとき、朝型人間に修正し、勤務前3時間の学習を日課とし、夜間の大学・大学院へ6年間学び、何事も目標を定め、10年間がんばれば、努力に応じた成果が出ることを実感しました。