主題について、南九州市長から“知覧観光大使”に任命された山近義幸氏が『知覧道〜大切なことは“富屋旅館”が教えてくれた〜』と云う単行本を出版されました。

私が『知覧道』の著者とご縁が出来たのは“経営者漁火会”の月例研修会の講師に山近氏をお招きした時です。広島県出身だと話したところ、潟Uメディァジョン(代表者山近義幸氏・主に人材紹介業)本社(広島氏横川町)での“感謝祭”にお招きを受け、その折に、私が被爆した横川町“みささ橋”近くにある、陸軍練兵場(爆心地より4キロメートル)近くの自宅近辺を早朝に乗用車で案内していただきました。

原爆投下日は雲ひとつない晴天、始業ベルが鳴る直前、便所の奥にいたところ、突然、写真のフラッシュの何千何万倍もの“ピシャーツ”という光を浴びて、身が閃光に包まれ、目の前が真っ白になりました。そのような話を“私の被爆体験記”(281ページ)と題して寄稿致しましたので、概要を紹介します。

“知覧”は太刀洗陸軍飛行学校知覧分校として設立、大戦末期に知覧特攻基地に名称が変更されました。海軍は「神風特別攻撃隊」陸軍は「特別攻撃隊」と呼びましたが、陸軍特攻の中心が“知覧”でした。この本土最南端の知覧飛行場からは特攻隊員約1,000人が飛び立って行き、帰らぬ人となり、特攻基地は太平洋戦争末期には、本土防衛の最前線となった鹿児島に多くの陸海軍基地があり、知覧・鹿屋・串良・国分・出水・万世の各飛行場から、特攻機が戦線へ飛び立って行きましたが、“神風特攻隊”は私の脳裏にも強く残っています。

タイトルにもある“富屋旅館”は1929年より鳥濱トメさんが経営しており、当時19歳の宮川特攻隊員は「ホタルになって帰ってくるから、ホタルを見かけても追っ払ったらだめだよ。それは俺だから・・・」と言い残し出撃。その夜、旅館に入ってきた一匹のホタルを見て、富屋旅館にいたトメさんと娘達、出撃前の隊員達は「同期の桜」を歌い、涙を流したそうです。幽霊になって帰ってきても中に入れてね、と云った隊員もいたそうで、富屋旅館に出入りする知覧で出撃を待つ特攻隊員は、当時42歳の女主人を母のように慕っていたようです。

本書の後半において、34名の中小企業経営者が知覧を訪れた感想文が綴られております。「教え子が次々と飛び立っていく姿を見た特攻隊員の教官が、教えている自分だけが生き残っていることに疑問を感じ特攻隊を志願していたが、家族がいるため隊から却下されていた。悩む夫の姿を見ていた妻が、幼い子供二人を連れて入水自殺をした。それでやっと教官は志願を聞き入れられ、特攻隊員として飛びたって逝った。戦時下という特殊な状況下とは言え、やりきれない思いでいっぱいになりました。」と書かれている方がいらっしゃいましたが、私も同じ気持ちになりました。 

現在の日本は、トカラ列島の中国漁船による我が国保安庁の監視船追突事件を見るにつけ、国家存亡の危機について、日本人として真剣に問題意識を持ち行動しなければならない時代だと思います。


以上 
平成23年5月1日
税理士法人マークス
代表社員 植村祐三