代表社員税理士 植村祐三


 今年の元旦は自宅前のちんちん電車に乗って妻と2人で住吉大社に初詣に行き、3日は徒歩30分程度の処にある、聖徳太子創立の四天王寺に参拝、何時もなら、小池にいるカメさんが全く姿を見せず、カメさんもお正月をゆっくり楽しんでいるのでしょう。さらに徒歩30分程の処にある陰陽師・安倍晴明神社と王子神社にもお参りをしました。
また、昨年10月から12月迄、四天王寺大学主催の"四天王寺を通じて学ぶ仏教の世界"と題するセミナーに参加しました。

聖徳太子と言えば、一度に10人の話を聞き分けたとか、記憶力抜群であったとか、"和を以て貴しと為す"という言葉などをすぐ思い浮かべ、一方、我が国の仏教の祖だと思います。
また、独立国家の組織確立を目指し、聖徳太子は遣隋使を大陸に派遣し、十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立、仏教興隆に努め、我が国の精神界に大な貢献をし、弘法大師や最澄などに多大な影響を与えた人物だと思います。
また、ネットで調べて見ると、付け焼刃ですが、聖徳太子が生きた時代は日本書紀によれば「・・・「隋書」には、隋使の国書は"日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す"との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝・・・・を「無礼である、二度と取り次がせるな」と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日没處」の語は〈摩訶般若波羅蜜多経〉の注釈書「大智度論」に「日出處是東方日没処是西方」とあるなど、単に東西の方向を表す仏教用語である。

この国書は俀国が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の俀国と結ぶ必要があった。」と記されている。
聖徳太子の略歴は、574年生誕、587年仏教推進派の蘇我馬子と反対派の物部守屋が対立、物部守屋一族は没落、聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我馬子に加担、戦勝を祈願した証に593年"四天王寺"を建立、600年第1回遣隋使を大陸に派遣、603年冠位十二条を制定、604年憲法十七条作成、607年崇峻天皇を供養するために"法隆寺"を建立、620年馬子と協力して「天皇記」「国記」を編纂、622年49歳で死去、その後、643年聖徳太子の皇子山背大兄王が、蘇我入鹿に惨殺され、聖徳太子一族は滅亡した。

この世は常に生成・発展・変化しバランスを取りながら、安定を繰り返しておりますが、現代国家は"民族・金融・修正資本主義"と表現できましょう。そして、我が国は急激な高齢化社会を迎え、また、人生100歳時代に備えるために、この歴史的限定の中を我々はどう対応して生きるべきでしょうか。
時あたかも「トカラ列島の中国漁船衝突事件」を見るにつけ、中国の覇権主義に我が国が今後どう対応してゆくべきでしょうか。我が国は天然資源が少ないが、工夫にたけた民族の存続を念頭に、高齢者が大いに踏ん張る時代ではないかと思います。

一昨年6月号で"四天王寺と日本一高層ビル"と題し、若干、聖徳太子について触れましたが、一部誤記がありました。・・・「仏教に反対する蘇我馬子と賛成派の物部守屋が戦った・・・」とありますが、「仏教に反対する物部守屋と賛成派の蘇我馬子が戦った」が正しく、修正・お詫びします。