私の事務所に“般若心経”の額が掲げてあり無意識に目に触れますが、義父の形見に持ち帰った本“般若心経”を読み進むうちに、玄奘がインドへ経典を求めての道中、ぎゃーてい ぎゃーてい と“心経”の神秘的な智慧の呪文を唱え進む姿が目に浮かびました。

 先日、梅田・旭屋で写真詩集「千の風になって」で話題を呼んだ、新井 満著の自由訳“般若心経”を読みましたが、印象に残ったのは「“ぎゃあてえ”という神秘的な呪文はいかなる意味を秘めているのか、それは旧生命を捨てて新生命として再生する。即ち“おぎゃあ!”と言って生まれてくる赤ちゃんの泣き声の音写に違いないと本気で考えた」という個所でした。

 私が45歳の時、沖 ヨガ道場へ出向した時、沖 導師は“般若心経”は、空じて無になることで、物事の本当の姿が見えて来ること、また、無になる生活者になる道を示し、悟るということを端的に述べるエッセンスである。悟るには観自在菩薩(心が明らかで煩悩がなく観じる所の自由自在なことー広辞苑)となって、全ての囚われから自己を開放する。その具体的実行方法は心・身・生活の全てがヨガで説かれてあると、沖 導師の説明が安易なのは、苦行・ヨガ・冥想を経て悟られた、仏陀と同じような行動を実践されたからだろうと思いました。

 我々は雑念妄想のうちに過ごす生活で幸せに暮らす核心は、無心に自然を徹底的に見つめ、無心になる必然性を“般若心経”から読みとり、実行することだと思います。

 では無心とは何だろう、無心とは自然状態のことであると理解しますが、常に何事も逆手にとって対応しバランスを取る。心身の正しい状態が自然状態だとすれば、この自然状態を乱すのが遺伝・癖・習慣等であるから、この癖・習慣による不自然な停止状態から脱却して、本来の状態に帰ろうとする働きが自然に起こる。 この回復の働きがひどい時に感じるものが煩悩・病気などの異常感であるが、自然状態のときは不自然なものから脱却又は回復する運動(異常な感じ)が生じる必要がない。 自己が無心な状態かどうかは、心身の状態が自然体であれば、心身はあってもそのあることを感じさせない。無心な状態とは引っかかったり執われたりする心がなく、心中何も無い、水が流れるような状態、無体状態が本当の意味での健康体だと思います。

 私も21才の時、生死の境をさ迷い、“無”と言う情感が生じました。自己がこの世に存在しないが、今ここに存在する。もし、空無ならば、苦しみもないはずであるとの思いを持ちました。

 未だ、“般若心経”を論じるのはおこがましいのですが、偉大なる神秘的な智慧の呪文を唱えることで、自然なる無の真理を悟り、永遠にして聖楽なる知恵を求めて、“般若心経”の教えを縁ある方々と共に、もっと深く学び、行じたいと思う次第です。